鳥越墓地の一角にひっそりとたたずむ、石仏???

「宝暦七丁丑七月(宝暦7年=1757年)
玉露童子」
の刻印。顔は欠落しています。
宝暦の頃といえば、宝暦治水事件がおこった頃ですが。
玉露童子???なんだろう、Wikiでは検索できなかったが・・・。

「宝暦七丁丑七月(宝暦7年=1757年)
玉露童子」
の刻印。顔は欠落しています。
宝暦の頃といえば、宝暦治水事件がおこった頃ですが。
玉露童子???なんだろう、Wikiでは検索できなかったが・・・。
宝寿庵のとある墓地にある観音像??


天保と言えば天保の大飢饉。
江戸時代後期の天保4年(1833年)に始まり、35年から37年にかけて最大規模化した飢饉。天保10年(1839年)まで続いた。天保7年(1836年)までと定義する説もある。寛永・享保・天明に続く江戸四大飢饉の一つで、寛永の飢饉を除いた江戸三大飢饉の一つ。単に天保の飢饉とも言う。
何か、かかわりがあるのだろうか、天保10年に建立されたみたいだし。枕崎でも何かあったのかな???


天保と言えば天保の大飢饉。
江戸時代後期の天保4年(1833年)に始まり、35年から37年にかけて最大規模化した飢饉。天保10年(1839年)まで続いた。天保7年(1836年)までと定義する説もある。寛永・享保・天明に続く江戸四大飢饉の一つで、寛永の飢饉を除いた江戸三大飢饉の一つ。単に天保の飢饉とも言う。
何か、かかわりがあるのだろうか、天保10年に建立されたみたいだし。枕崎でも何かあったのかな???
桜山校区内瀬戸上墓地(木場集落)の板碑

明応4年(1495年)室町末期造立。
枕崎市内に現存する唯一の板碑であるとされる。
枕崎の石塔類という文献によれば、
「明応4年に真言宗の法師が大乗妙典一千部を読誦して妙応禅尼の菩提を供養するために建立した読誦塔である。この板碑の被供養者は或いは寝穪(ねじめ)氏一族ではないかと推測する向もある。」
と記載されています。薩州島津家が統治していた時代のことのようです。

明応4年(1495年)室町末期造立。
枕崎市内に現存する唯一の板碑であるとされる。
枕崎の石塔類という文献によれば、
「明応4年に真言宗の法師が大乗妙典一千部を読誦して妙応禅尼の菩提を供養するために建立した読誦塔である。この板碑の被供養者は或いは寝穪(ねじめ)氏一族ではないかと推測する向もある。」
と記載されています。薩州島津家が統治していた時代のことのようです。
図書墓の写真を、撮りに行ったときに見つけた石造りのもの、燈篭か何かの一部だと思っていたのですが、今日その疑問が解けました。古いお墓の一部であるということが判明。

他の墓地で見つけた石塔(墓石)

横に、伊集院与左衛門と藤原何某の名が刻まれています。

「伊集院与左衛門」は、昭和44年発行の枕崎市誌の202頁に喜入家7代忠政が寛永15年(1638年)島原の乱の援軍として、出兵した際に従軍した家臣のひとりとして記載されています。
同一人物であるとすると、なかなか面白いことになりそうです。
わくわくしてきます。

他の墓地で見つけた石塔(墓石)

横に、伊集院与左衛門と藤原何某の名が刻まれています。

「伊集院与左衛門」は、昭和44年発行の枕崎市誌の202頁に喜入家7代忠政が寛永15年(1638年)島原の乱の援軍として、出兵した際に従軍した家臣のひとりとして記載されています。
同一人物であるとすると、なかなか面白いことになりそうです。
わくわくしてきます。
何も看板とか、案内の類がないので・・・もしかしたらちがうかもしれませんが。位置的には合っているようなので。



昼なお暗い・森の中、入口は直されていましたが、なんとなく荒れている感じでした。
周辺には興味深いものが、何点かあります。
「図書墓」(ずしょはか)
昔から「図書どん墓」と、呼ばれてきたといいます。その、由来については明治42年編集の旧郷土誌は、「図書公の墳墓は長善寺跡の東字上の小野西、竹薮の中にあり、旧宮之上領主島津氏の墓である。維新前後頃に至るまではここに図書松という松があったが、枯れてしまったとのことである。図書公は、かつて鹿篭を領していたという。(一説には図書公は、加世田及び鹿篭の地頭であって、公は加世田で死に、その室がこの地で死んだので、墓はすなわち、その室(身分ある人の妻)を葬ってあるのだといっている。)」と述べています。
宮之城島津氏の祖は、かつて鹿篭の領主であった島津忠長です。串良の地頭職に補せられて鹿篭をさり、のち宮之城に入りました。そして図書を名乗りました。以上の点は判明しているが、なぜ宮之城領主の墓が鹿篭にあるのか不思議です。旧郷土誌にあるように、加世田で死んだ公(忠長の父尚久)の室(正室か側室かは不明)の墓と見るのが妥当かもしれません。
注;島津尚久の墓は、竹田神社境内にある。
所在地 東鹿篭 字上の小野西(宇都集落)
「枕崎市誌」より。



昼なお暗い・森の中、入口は直されていましたが、なんとなく荒れている感じでした。
周辺には興味深いものが、何点かあります。
「図書墓」(ずしょはか)
昔から「図書どん墓」と、呼ばれてきたといいます。その、由来については明治42年編集の旧郷土誌は、「図書公の墳墓は長善寺跡の東字上の小野西、竹薮の中にあり、旧宮之上領主島津氏の墓である。維新前後頃に至るまではここに図書松という松があったが、枯れてしまったとのことである。図書公は、かつて鹿篭を領していたという。(一説には図書公は、加世田及び鹿篭の地頭であって、公は加世田で死に、その室がこの地で死んだので、墓はすなわち、その室(身分ある人の妻)を葬ってあるのだといっている。)」と述べています。
宮之城島津氏の祖は、かつて鹿篭の領主であった島津忠長です。串良の地頭職に補せられて鹿篭をさり、のち宮之城に入りました。そして図書を名乗りました。以上の点は判明しているが、なぜ宮之城領主の墓が鹿篭にあるのか不思議です。旧郷土誌にあるように、加世田で死んだ公(忠長の父尚久)の室(正室か側室かは不明)の墓と見るのが妥当かもしれません。
注;島津尚久の墓は、竹田神社境内にある。
所在地 東鹿篭 字上の小野西(宇都集落)
「枕崎市誌」より。















